患者 女性 50歳代
医療機関 A乳腺クリニック
<事案の概要>
第1 当事者
原告は医療被害を被った者である。
被告はA乳腺クリニック(以下被告医院という)を設置管理する者である。
第2 診療の経過
1 原告は昭和24年2月13日生の女性。
原告は、平成17年6月6日、左乳房中心近くにしこりの自覚症状を覚えた。そのため、被告医院を受診した。
触診で左乳房に腫瘤が認められる(境界明瞭で平滑)。マンモグラフィー(以下MMGという)によれば腫瘤は特に認められず。エコー検査(以下USという)によれば5㎜以内の乳腺のう胞が3,4カ所認められるとされた。
被告から、「乳腺のう胞がある。がんの心配はありません。」と言われた。特に再診の指示はなかった。
2 平成18年4月4日、左乳房に違和感があり被告医院を再診した。
触診によれば左乳房腫瘍様硬結あり、昨年より強いかとの記載がある。超音波検査によれば乳腺には蜂の巣状の5㎜以内ののう胞が数カ所あると言われた。「多発性のう胞で特に問題はない」と言われた。
しかし、経過観察のためということで3ヶ月後の再診を勧められた。
カルテには左乳房乳首のやや外側に上下の索状のスケッチと共に「腫瘍様の硬結、去年より強いか?ECでのう胞状、多発性」とある。US所見として「左CD→のう胞集簇→蜂の巣状のう胞」記されている。MMGは行われなかった。
ケアノートには「腫瘤触知(-)、エコーで腫瘍陰影(+)、乳腺のう胞数ヶあり、径5mm以下、3ヶ月後エコー、19年6月頃エコー、MMG」と記されている。但しカルテで「腫瘍様の硬結、去年より強い?」と以前より硬くなっている事やスケッチでは大きさも増している記載であるのにケアノートでは腫瘍触知(-)とされている。
3 同年8月7日、しこりが大きくなったため再診。
左乳房には腫瘍様硬結が認められる。超音波検査によると径5㎜以内ののう胞が5,6カ所認められる、多発性乳腺のう胞と言われた。MMGは行われていない。
このときも、がんではなく、放っておけばそのうち脂肪に変わると言われた。 カルテには「訴えなし」、左乳房のスケッチも3ヶ月前とほぼ同じ、「腫瘍様の硬結、多発性の胞あり」「エコーで多発性のう胞は同じ」の記載がある。腋窩のしこりの有無は確認していない。
ケアノートには左乳房の同様のスケッチに「しこり様硬結」「腫瘤触知(-)、エコーで腫瘤陰影(+)、乳腺のう胞5~6ヶ(径5mm以内)左のかたい部分変化ありません」の記載がある。
4 同年11月、左脇の下にしこりを感じたため、訴外みやぎのC内科クリニックを受診。同内科クリニック医師に、専門医の診察を勧められた。そのため、同月30日被告医院を受診した。
そのときの触診によれば左乳房腫瘍触知あり。MMGによれば腫瘤陰影像なし、石灰化像あり(左)。超音波検査によれば腫瘤陰影像あり、左乳腺のう胞は炎症を伴っている、左腋窩リンパ節が腫れているとされた。
このときも、被告からは乳房の腫瘤影はがんではないといわれた。しかし、珍しい画像とのことで、念のために細胞診が行われた。
カルテには、「左乳房2ヶ、左腋窩リンパ節触知、左乳首外側に上下に索状のスケッチ,USにて多発性のう胞3~4ヶ、感染したのか?周囲に炎症ありの像もみえる。熱っぽかったとのこと。視触診:ltc(左C)に腫瘍、MMG:腫瘍陰影(T-S)(-)、左(?)石灰化、ややgrouped(集簇性)、穿刺にて膿性」と記されている。
12月5日に穿刺生検で悪性の診断が出て、同日の被告のMRI依頼の紹介状には「腫瘍2.7cm、固く(形状)不規則性、(表面)凸凹、可動性悪し」と記されている。
5 同年12月5日、細胞診の結果がんと診断されたと被告から電話で連絡があった。細胞診の結果はクラスⅤ(悪性)だった。その後、同月8日に被告医院にてCAB(穿刺吸引針生検)が行われた。
6 同年12月12日、被告の紹介によりB病院においてMRI、手術前検査が行われた。
CABの結果は充実腺管癌。
MRIでは「乳頭直下からほぼ全ての区域に拡がるような広範な腫瘍で分葉性ないし多発性、脂肪抑制造影T1でみるとAB側では比較的深い位置に腫瘍があるが、CD~Dの乳頭近くでは腫瘍は皮膚直下まで達する」とされた。
7 同年12月19日、B病院に入院し、翌20日、左乳房切除術が施行された。
B病院の診断は、浸潤性乳管がんで、リンパ節転移あり(TNM分類によればN1b)。リンパ節廓清を17カ所行ったところ、そのうち16カ所に転移していた。CT所見によれば遠隔転移はなく(TNM分類によればM0)、腫瘍径は2cm以上5cm以下(TNM分類によればT2)で、がんのステージ(病期)はステージⅡBだった。ホルモンレセプタ陰性、HER2:3+で予後不良。
8 原告は、平成18年12月19日から同月30日までB病院に入院 し、その後化学療法のため同病院に平成19年1月22日から23日に入院した。
原告は2月以降月1回通院して化学療法をうけた。
9 平成22年4月14日乳癌の再発により死亡。
第2 過失
1 乳房にしこりが見られた際の検査方法
乳房のしこりという症状を呈する疾患は多様であるが、その診断のためにはまず視診・触診と、MMG・USなどの画像診断が行われる。
そしてどの疾患であっても乳癌との鑑別が重要である。乳癌の確定診断は病理組織的な検査によって行われる。従って、少しでも悪性腫瘍が疑われる場合には、確定診断を得るために、細胞診(穿刺吸引細胞診)を行い、それで診断がつかないときには穿刺生検(穿刺吸引組織診)、摘出生検などの組織診断が必要となる。
2 画像診断の評価
MMGは、専用のX線写真撮影装置によって小さい腫瘍や乳房の奥(胸壁の近く)のしこりも検出できる。また腫瘍を形成する以前の非浸潤癌の初期の病巣も検出できる利点を有する。欠点としては閉経前の女性や閉経後でも乳房の大きな女性などの乳腺組織の濃密な女性では、乳房全体が白っぽくうつって小さい腫瘍はその中に埋没して検出しにくくなることが上げられる。またMMGの撮影装置、乳房のはさみ方、撮影条件や読影技術などによって診断精度はかなり異なってくる。
USは簡便であり、乳腺の濃密な女性でMMGでは腫瘤が検出できない場合にも輝度の差により検出が可能なことがあり、そのような場合にはUSは有用である。しかしながらUSは診断する医師の技量によって診断精度は大きく左右される。
いずれにせよ画像診断は、それのみで乳癌を診断しうるものではなく、乳癌ではないと除外診断しうるものでもない。
3 トリプルテスト
日本乳癌学会の乳癌診断ガイドラインでも「一般的には、触診、マンモグラフィ、FNA(穿刺吸引細胞診)を含めたトリプルテストが有用とされており、3つを併用すれば癌を見落とす率は非常に低い。457例の癌患者において3種のテストすべてが陰性であったのは3例(0,7%)のみであり、一方99,4%が3つのテストすべてに陽性を示した。マンモグラフィの代わりに超音波検査を組み合わせても約95%の感度で癌の診断が可能である。」とされており3つの検査を組み合わせるトリプルテストの有効性が指摘されている。
同ガイドラインが引用するNCCNのガイドラインでは、30歳以上の者の硬結・腫瘤に対する画像診断のアプローチとして、超音波検査でのう胞性腫瘍が認められた場合はのう胞の内容物を穿刺吸引して血性か否かを確認し、腫瘤が持続したり吸引した内容物が血性である場合には再吸引又は外科的切除を行うものとされている。そして穿刺吸引を行った場合は細胞診検査を行うことが勧められるとされている。
かようにのう胞性腫瘍が認められる場合には、画像診断だけで良性悪性を鑑別するのではなく細胞診を行って鑑別する必要があるとされている。
4 本件画像所見
平成17年6月6日の1回目のMMGにははっきりした腫瘍陰影は認められない。小結節性の陰影や円形の透亮度の高い陰影すなわちのう胞状の陰影もみとめられるが、USのようなのう胞ではない。石灰化についても粒状の固い陰影もみられるが数は少なく、かつ散在性である。びまん性、あるいは集簇性の石灰化像はみられないので、この時点では悪性所見を示しているとは考えにくい。
平成18年4月4日はMMGは行われていない。US所見として「左CD→のう胞集簇→蜂の巣状のう胞」記されているが、たしかに小のう胞の数が増しており、部分的には蜂の巣状に見える。
同年8月7日もMMGは行われていない。超音波検査によると径5㎜以内ののう胞が5,6カ所認められる。
同年11月30日にはMMGが行われた。はっきりした腫瘍陰影はないが、こまかなびまん性、あるいは場所によっては集簇性ともとれる石灰化陰影である。USでは輝度の低い長だ円形からだ円形の4~5mmの陰影をみとめ多発性のう胞性腫瘍と読める。
5 過失1
11月30日のMMGは画質が悪いが、それでも悪性所見である石灰化像が認められている。
12月12日にB病院で行われたMRIの所見は「乳頭直下からほぼ全ての区域に拡がるような広範な腫瘍で分葉性ないし多発性、脂肪抑制造影T1でみるとAB側では比較的深い位置に腫瘍があるが、CD~Dの乳頭近くでは腫瘍は皮膚直下まで達する」というものである。すなわち左乳房のほぼすべての区域に浸潤した乳癌で、かつ乳房の底部から乳頭近くの皮膚直下まで達っしており、このような癌の進展が4ヶ月ないし8ヶ月余りで起きたとは考えられない。従って4月4日及び8月7日にMMGが行われていれば同様の石灰化像が認められた可能性は高い。
そして単なる乳腺のう胞であれば時間の経過と共に消退するのが通常であるのに、本件では多発性のう胞は消退せず、むしろ4月4日、8月7日と増大傾向を示している。従ってUSだけではなくMMGを行うべき義務があった。
4月4日ないし8月7日にMMGを行って石灰化所見が認められれば、NCCNのガイドラインでは針生検を行うべきとされている。そして針生検を行えばほぼ確実に乳癌を診断することが可能であった。
6 過失2
仮にMMGを行うべき義務がないとしても、本件では初診時に多発性のう胞が認められる。乳癌の画像所見は多彩であってのう胞だからといって悪性が否定されるわけではない。乳癌には(ⅰ)のう胞を形成するもの、(ⅱ)癌腫の内部が壊死変性してのう胞化するもの、(ⅲ)のう胞が癌化するもの等、のう胞状に造影される癌腫もある。従ってこの画像で乳癌が否定されるわけではない。
そしてその後この多発性のう胞は消退せず、むしろ4月4日、8月7日と増大傾向を示している。単なる乳腺のう胞であれば時間の経過と共に消退するのが通常であるから4月4日の時点では悪性の可能性を念頭に置いて病理組織学的な検査による鑑別診断をすべきであった。従ってこの時点で穿刺吸引を行って内容物が血性か否かの確認及び内容物の細胞診を行うべき義務があった。
第3 因果関係
1 鑑定
補充鑑定では、本件で平成18年4月4日または同年8月7日の時点において癌の治療を開始した場合の5年生存率、10年生存率は、「本件の情報のみでは推定不能」とされている。
またリンパ節転移についても何時の時点でどのような経過でリンパ節転移が生じたかは特定及び推定不能とされている。
その一方で本鑑定では「平成18年4月4日、同年8月7日の時点に発見されても根治(治癒)の可能性は同等であったものと考える」とされ、その理由として「通常の乳癌は長い経過で徐々に成長、進展、転移してゆきます。従って数ヶ月から1年程度発見と治療が早まったとしてもその治療成績に大きな差はないと考えられている。」ことを上げる。
補充鑑定では「数ヶ月で治療成績が変わる可能性」についての説明として「腫瘍の大きさよりもリンパ節転移の個数が患者さんの予後に大きく影響を与えます。本件の診療録をみるとがんが乳房内で大きな腫瘍になる前に、数ヶ月間の間に高度なリンパ節転移がはじまり全身病へと移行しているのがわかります。」とされる。
2 鑑定の評価
「通常の乳癌は長い経過で徐々に成長、進展、転移してゆきます。従って数ヶ月から1年程度発見と治療が早まったとしてもその治療成績に大きな差はないと考えられている。」との知見は誤りである。もしこれが本当であれば通常行われる年1回の乳癌検診や乳癌の疑いがある患者に対する4ヶ月~半年毎の経過観察は全く無意味なことになってしまう。そのような癌の病期分類を無視した大雑把な知見を述べる文献は存在しない。善解すれば、鑑定が述べるのは長い期間の間に徐々にリンパ節転移が増えていった場合の一般論を言うのであろうが、本件がそうであったかどうは不明であって理由付けとしては不適切である。
またリンパ節転移の個数が予後に大きく影響することを認め、かつ本件で何時どのような経過でリンパ節転移が起きたかの特定及び推定は不可能と述べておきながら根治が困難との結論を導くのは根拠を欠くものである。
鑑定人の知見を本件に当て嵌めるなら「5年生存率、10年生存率は、本件の情報のみでは推定不能」というのが結論になるはずである。その意味で木下本鑑定の結論は実質的に修正されていると見なくてはならない。
そして純粋に医学的見地からすれば「5年生存率、10年生存率は、本件の情報のみでは推定不能」という結論は誤ってはいないが、法的因果関係は規範的判断であって純粋な医学的見地からの判断とは異なる。
3 診療行為の医学上の有効性の程度についての統計資料
乳癌治療後の生存率はステージ0~ステージⅣまでの病期分類に応じて示され、施設によってバラツキはあるが大阪府立成人病センターの手術成績(甲B19号)はステージⅡの5年生存率は88.2%、ステージⅢのそれは78%である。京都大学乳腺外科の手術成績(甲B21号)はステージⅡBの5年生存率は79.2%、ステージⅢのそれは67.7%である。国立病院機構西群馬病院の手術成績(甲B22号)はステージⅡBの5年生存率は83.5%、ステージⅢAのそれは80.2%、ステージⅢBのそれは81.8%である。順天堂大学医学部附属病院乳腺科の手術成績(甲B23号)はステージⅡの5年生存率は約90%、ステージⅢAのそれは約77%、ステージⅢBのそれは約71%である。癌研有明病院の手術成績(甲B18号)は腫瘍径3~5㎝の5年生存率は85.7%、リンパ節転移4~9個のそれは79.8%とされる。
そしてこれらの施設の治療成績はホルモンレセプター陽性、HER2陰性の乳癌患者を除外したものでもなければ単に乳房の切除術を行った場合の治療成績でもない。甲B21号に「ホルモン受容体発現、HER2発現などを考慮した乳癌の生物学的分類を基礎とし、再発リスクを考慮して治療方針を決定している。再発リスクが中等度以上の患者さんに対しては化学療法の感受性を考慮した上で基本的に術前化学療法、手術、術後補助療法(化学療法、放射線療法、ホルモン療法など)という順序で治療を進める。」とあるように、患者のようにホルモンレセプター陰性、HER2陽性の乳癌患者を含めた治療成績なのである。
もちろん患者の場合は、この数字より低かった可能性はあるが、被告において患者のどの因子がどの程度5年生存率を低下させたのかの立証がなされていない以上、上記の統計資料は高い証明力を持つと評価すべきであってこれを基礎とした判断がなされるべきである。
4 本件におけるリンパ節転移個数及び腫瘍径
手術後の生存率は腫瘍径とリンパ節転移個数に左右されるところ、リンパ節転移がどのように生じていくかについて経時的に観察されたデータは存在しない。何故ならリンパ節転移が発見されれば手術可能である限り直ちに手術されてリンパ節廓清がなされるからリンパ節転移個数の推移を観察することなどあり得ない。手術不能というのは既に遠隔転移までしている場合であって、その場合は既に多数のリンパ節転移が存在するのが通常であり、それまでの間のリンパ節転移個数の推移を観察できるものではない。補充鑑定でも特定及び推定は不可能とされている。
腫瘍径について言えば、鑑定によっても、平成18年8月7日の時点においても超音波画像上多発小嚢胞であると判断できるが、「明らかな腫瘤像は集簇(原局)していたかどうかは本資料からは判断できません」とされている。被告によれば腫瘤像は存在しないということであり、原告が事前に読影を依頼した医師の意見も画像上明確な腫瘤像は確認できないというものであった。つまりこの時点では多発小嚢胞として描出される部分に癌細胞は存在するが明確な腫瘤を形成するまでには至っていなかったものである。それが12月5日付けの紹介状には腫瘤2.7㎝と記載されている。
腫瘍径の増大とリンパ節転移個数の増加が比例するとは限らないが、それまで存在しなかった腋窩リンパ節が11月30日に初めて触知されていることからしても8月7日以降にリンパ節転移が進行したことは十分うかがわれるところである。本件では他にリンパ節転移の進行機序を解明する手段は存在しないが、4月4日あるいは8月7日に穿刺吸引細胞診ないし針生検を行って乳癌の診断がなされていればCTやMRIでリンパ節転移の状況を把握できたものである。リンパ節転移の進行機序が不明なのは被告が必要な検査を怠ったが故であって、そのことを原告の不利益に帰することは許されることではない。
補充鑑定でも「本件の診療録をみるとがんが乳房内で大きな腫瘍になる前に、数ヶ月間の間に高度なリンパ節転移がはじまり全身病へと移行しているのがわかります。」とされる。この数ヶ月が具体的にどの程度の期間を指すのかは明らかにされていないが「数ヶ月の間」という推定しかできないということであろう。4月4日は乳房内に大きな腫瘍が(その後の細胞診も踏まえて)確認された11月30日から8ヶ月前、8月7日は4ヶ月前である。
この鑑定は4月4日または同年8月7日の時点においてリンパ節転移の個数が10個未満であった蓋然性が高いことを示す重要な間接事実である。
また腋窩リンパ節が触知されたのは11月30日に至ってのことである事実も、4月4日または同年8月7日の時点においてリンパ節転移の個数が10個未満であった蓋然性が高いことを示す重要な間接事実である。
さらに被告自身が本件癌は8月7日以後に急激に発生・悪化したと主張していることも、少なくともその時点まではリンパ節転移は高度ではなかったことの間接事実となる。
そして本件では他にリンパ節転移の状況を示す証拠が存在し得ないという事情と4月4日あるいは8月7日に穿刺吸引細胞診ないし針生検を行って乳癌の診断がなされていればCTやMRIでリンパ節転移の状況を把握できたという事情が存在する。これは証明責任の軽減を要請すると共に間接証拠の証明力を高める事実である。
これにリンパ節転移の進行機序が不明なのは被告が必要な検査を怠ったが故であって、そのことを原告の不利益に帰することは許されるべきでないという価値判断が加われば、上記3点の間接事実を踏まえた規範的判断として、4月4日または同年8月7日の時点においてリンパ節転移の個数が10個未満であった蓋然性が高いことを肯定することができる。
5 有効な治療方法の存在
既に述べたように最高裁は「肝細胞癌を早期に発見すべく適切な検査を行っていたならば、遅くとも死亡の約6ヶ月前に肝細胞癌を発見し得たとみられ、これが発見さていたならば、以後当時の医療水準に応じが通常の診療行為を受けることにより、患者は当該死亡の時点でなお生存しうる高度の蓋然性が認められる。そうすると肝細胞癌に対する治療の有効性が認められないというのであればともかく、このような事情の存在しない本件においては、医師側の肝細胞癌を早期に発見すべく適切な検査を行うべき注意義務違反と死亡との間には因果関係が存するものというべきである」と判示している。すなわち、当時の医療水準に応じた通常の治療行為が当該患者に施されたとした場合の具体的な転帰の予測が困難であっても、その有効性が認められないといった特段の事情がない限り、注意義務違反と患者に生じた当該死傷との間の因果関係は推定されるのである。
そして本件では癌の外科的切除という有効性の承認された治療方法が存在するのみか、外科的切除のみでは再発の可能性がある場合の化学療法の追加という有効な治療方法が存在する。
6 結論
甲B18号証によれば、リンパ節転移数が少なければ少ないほど乳癌治療後の生存率が高いことが示されている。リンパ節転移数が4~9個の場合は乳癌治療後の5年生存率は79.8%である。
訴訟上の証明は自然科学的証明ではなく経験則に照らして全証拠を総合検討し、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるかの判断である。4月4日及び8月7日の時点でリンパ節転移が存在したかどうか、存在したとして個数は何個であったかを厳密に医学的に証明することはもとより不可能であるが、上記事情を総合すれば、8ヶ月前の4月4日あるいは4ヶ月前の8月7日の時点で、リンパ節転移数が10個未満であった蓋然性は高かったと推認すべきである。そしてその場合の5年生存率は79.8%である。
その上、上記のとおり本件では乳癌に対する有効な治療方法が存在し、その有効性が認められないといった特段の事情の証明はなされていないのであるから因果関係は認められなくてはならない。
第4 予備的主張(救命し得た相当程度の可能性)
1 原告としても患者がホルモンレセプター陽性、HER2陰性の乳癌患者と比較して予後が悪かった可能性があることは否定しない。
しかし仮に4月4日あるいは8月7日の時点におけるリンパ節転移個数が10個以上であったとしても、その場合の5年生存率は55.5%(甲B18号)であって癌の5年生存率としては決して低い数字ではない。従って仮に因果関係が認められないとしても救命し得た相当程度の可能性は優に肯定される。
そして5年生存率55.5%という数字は2人に1人以上は助かるという数字であるからその場合の慰謝料の金額としては1000万円が相当である。
2 近時救命し得た相当程度の可能性の侵害の場合の慰謝料の認容額は低下の一途を辿っている。この傾向は「救命し得た相当程度の可能性」を従前から存在した期待権侵害とは異なる独自の保護法益として新たに認めた最高裁の考え方に全く反するものである。
従前の期待権侵害でも下級審では200万~300万円が相場であった。「救命し得た相当程度の可能性」侵害の場合、初期の下級審では500万円~1000万円を認容していた。原告代理人も最高裁判決後間もなくの時期に850万円の判決を得ている。それがいつの間にか期待権侵害の場合と同様の損害額しか認容しない判決が出されるようになった。おそらく和解や訴訟前の示談では500万円~800万円程度での解決が今でも相当数を占めていると思われる。ただ判決になると和解が成立しないような患者側に不利な事情のある事例が多いために結果的に判例としては少額のものが多いように見えるだけのようにも思われる。
相当程度の可能性論は本来は因果関係を認めがたい場合に一律に切り捨てるのは妥当でないとの価値判断から最高裁が敢えて採用した法理論であった。ところが下級審においては逆に因果関係の認定が難しい事案について、取り敢えず相当程度の可能性を認めておけばよいという因果関係の厳密な検討を回避する方便に使われているように思われる。そのような姿勢は最高裁の意図とは全くかけ離れたものであって是正されなければならない。
本件は因果関係が認められるべきであって、安易に相当程度の可能性を認めるべき事案ではないと考えるが、仮にその限度にとどまるとしても保護法益にふさわしい妥当な損害額が認定されるべきである。
以上
2 検査義務を尽くしていれば乳癌を発見できたか
3 発見できたとして死亡を避け得た高度の蓋然性はあったか
4 高度の蓋然性はないとして相当程度の可能性はあったか
5 損害額
1 平成18年4月4日の時点での細胞診ないし針生検の検査義務は否定したが、同年8月7日の時点での検査義務を肯定した。また検査していれば乳癌を発見し得たことも肯定し、これを行わなかった過失を認めた。
2 しかし鑑定結果に基づいて、8月7日の時点で発見して治療したとしても死亡を避け得た高度の蓋然性は認められないとして因果関係は否定した。
3 因果関係は否定したものの死亡を避け得た相当程度の可能性は肯定。損害額については慰謝料300万円弁護士費用30万円とした。